1550年4月
浅井家は外交によりかろうじて北近江を維持している。
南には宿敵の六角家、北には盟友の朝倉家が構えている。
第二代当主浅井久政に忠誠を誓う七人の武将達。
かれらの武勇は軒並み高いが、智謀・統率力は低い。
俗に言う豪傑である。

方針
放っておくと六角が攻めてくるので、ここはひとまず、六角と同盟を組んでいる大名に従属する。
(六角はいずれ、完膚なきまで潰す)
朝倉とも戦いたくないので、朝倉とも同盟している大名である必要がある。
北と南の憂いを無くしたら、自然敵対するであろう京極家・新庄家を攻める。
鉄砲生産能力のある近江を優先してとる。
(敵に生産させないため)


1550年7月
伊勢の関家に従属した。
斉藤家とは以前戦う形になっているが、こちらは美濃に攻め入る気はない。
美濃は城の割に実入りが悪いからだ。
(50/19:30/14=2.63:2.14)
と、新庄城を攻めていたら、斉藤が京極家を攻め始めた。
これは美味しい予感…。

方針
所詮、この世は弱肉強食。
23万石の斉藤に14万の浅井がまともに戦って勝てるはずもない。
近辺の弱者を食うのだ!

1551年1月
上平寺城の横取り、新庄城の攻め落としに成功した。
次狙うは朽木谷城としたところ、朽木家は細川京兆家(29万石)に臣従してしまった。
これでは勢力を拡大できないとしたときに、運良く大垣城から敵武将がいなくなったので即攻め。
そして、新庄城を攻められているという構図である。
(京極家から京極高吉(3 2 3 3 3)、新庄家から新庄直頼(2 4 3 2 3)を獲得した)

方針
大垣城を取っても、そこで手詰まりになる。
次はどうする…。
それはそうと気になるのは六角だ。
もの凄い勢いで勢力が拡大している(35万石)。
危険だ…。
だが佐和山城に武将がいる。
1551年4月
六角が伊勢方面へ向かった。
まさか浅井は攻めてこないだろうという判断である。
だか、浅井にとって六角の成長は思わしくない。
佐和山城を攻める。
新庄城も結構、辛い状況なので細川京兆家と同盟関係にある朝倉家に従属した。

方針
大垣城を取った。
新たな敵(六角)がいるので、できれば斉藤とは同盟を結びたい。
六角とはまともに戦えない。
佐和山城をとったらすぐ引き上げて、朝倉・細川京兆のどちらかが遠征していれば、そこを攻める。
1551年9月
資金もたまって、いよいよ独立か…と意気込んでいたところに、 朝倉が北陸へ、細川京兆が山城へ向かったのですかさず独立。
斉藤家と同盟を結んだ。
六角には予想通り、同盟の申し出を断わられた。
佐和山城は落とされない程度に攻めさせておく。
朽木谷城を落とし、今庄城・金ヶ崎城を攻めている。

方針
近江の情勢を見る限り、南に進むより北へ行った方が楽ではある。
越前、若狭へ出るか。
今、接している若狭の小浜城は港があるので近いうちに攻めたい。

1552年3月
六角・細川京兆とも同盟を締結し、一気に北進した。
朝倉は本願寺との挟み撃ちにされ、もはや2年前のような勢いはない。
この時点で朝倉28万石、浅井36万石と差がついた。
浅井は15位である。
しかし、六角は同盟を結んでから南進し47万石、5位である。
北進もある程度まで行ったら、一旦近江に戻るべきか。

方針
六角の動きに注意しながら北進を続ける。


1552年5月
北進は続く。
しかし、若狭で異変が起こった。
北進の勢いに乗って、若狭武田家に従属要求すると、なんと承諾。
そして臣従させてしまったのだ。
47万石。堂々の7位。
一気に色つき大名へと成長した。
これは…、いけるかも

方針
とりあえず、朝倉家を潰すところまで北進する。


1552年10月
朝倉の本拠地、一乗谷城を陥落させると、従属を申し込んできた。
迷ったが近江も心配なので承諾し、即近江の観音寺城に出陣。
朝倉は来月には臣従させられるだろう。
そのおかげか、朝倉の傘下にいた堀江家、溝江家、東家も従属することになり、大幅に手間が省けた。
丹後の逸見家も従属させた。
やはり、将来有望な大名についてくるのだなあ。
好調な浅井家であるが、一つだけ深刻な問題がある。
武将不足だ。
現在、郎党を含めて11人。
57万石の巨大勢力とは思えぬ武将数。
朝倉を討って、獲得しようと思っていたのだが…。

方針
従属大名を臣従させる。
今こそ決断の時、六角を攻撃する!
長年の主従関係を払拭し、果てには討つのだ。
下剋上だ!
1553年7月
強襲
六角の援軍が到着したが、波に乗った浅井軍は蹴散らし、9ヵ月で六角を近江から追い出した。
浅井に大敗し、傘下の大名が次々と離反し、まさに六角は満身創痍であった。
丹後の一色家、丹波の丹波内藤家も臣従させた。
近畿には大大名がいないだけに、どんどん併合できる。
六角に全力で当たっていけるのも、そのためだ。
…。
116万石、一位。
武将が13人になった…と思ったら、郎党が2人増えただけだった…。
深刻な武将不足は続く。

方針
南へ全勢力を挙げて攻める。
周辺地域へ従属要求をしまくる。

1554年2月
急成長
山城まで攻め込んだ。
浅井の武将不足など、気にもさせないほど朝倉の兵が強い。
伊勢の神戸家、長野工藤家を臣従させた。

方針
細川京兆が三好に攻められている、これを機に、細川京兆を潰す。
「耄碌したな ピスコ…」
「よせ…私を殺すとシェリーを捜せなくなるぞ」
「悪いな…これはあの方直々の命令だ…」
「な!?」
「組織の力を借りてここまでのし上がったんだ…  もう十分いい夢見ただろ?   続きは向こうで見るんだな…」

1554年7月
三好も口ほどにもなく弱い。
このまま三好を潰してもいいが、大和の六角もまだ生きている。
宿敵は最後まで駆逐する。

方針
戯言は終わりだ… 
さぁ夢から醒めてお前の好きな緋色で、再会を祝おうじゃないか…
なぁ…
シェリー…


1555年9月
躍進
六角を追い詰めるまで、12ヶ月間。
外交で大成功し、中国方面に勢力を伸ばした。
石高355万のうち、直轄は177.8万石。
丁度半分だ。
武将不足は、もういい。
使いこなせないほどの武将が既に配下にいる。

方針
近畿統一。



1556年8月
六角を滅ぼし満足したので、残りは臣従させていった。
50万石の河内畠山がすんなりと承諾したのには驚いた。
中国は一度も出撃しないうちに半分を手に入れた。
だが…、ここからは兵を向けることになりそうだ。
毛利元就が従属しないのだ。
四国を攻め始めているので、ここは軍団に任せる。
武将過剰に困ってたんだ。
臣従武将全員(ざっと120人)で、毛利元就を攻める。
軍団長は松永久秀だ!

方針
久秀軍団に十分な所領と資金と鉄砲を与えて、毛利を攻めさせる。
浅井家直属の武将は、四国で大友と戦う。
石高1位と2位のぶつかりだ。


1557年7月
四国は頗る順調だ。
しっかりした戦術を展開し、効果的に攻めている。
一方の中国というと、お世辞にも順調とは言えない。
毛利の6倍の人員を動員しているのに、一進一退の攻防が続いている。
恐るべし、毛利元就。
東日本にも進展があった。
本願寺、斉藤、上杉らを臣従させたのだ。
よって、先の三大名の武将中心に軍団を編成し、同盟を承諾しない北条を攻撃する。
軍団長は足利義輝だ!

方針
久秀軍団に十分な所領と資金と鉄砲を与えて、毛利を攻めさせる。
浅井家直属の武将は、四国で大友と戦う。
織田が浅井に従わないのが気になるが…

1558年8月
長期戦になると、久秀軍団が毛利を押し始めた。
圧倒的な軍事力を背景にした人海戦術の前には、小手先の技など意味をなさない。
四国も相変わらずの様子。
この感じだと、予定通りほぼ同時に九州へ上陸できそうだ。
義輝軍団は、新たに臣従させた大名の武将を加えてさらに強力となった。
その数250。
中国の時と同様、今は足踏みしているようだが、近いうちに有利になるだろう。

方針
各方面を攻める。
織田は今だ従わない…。
盟友よ…、北条が倒れたら次はお前だ。
頼むから承諾してくれ。

1559年12月
織田がついに臣従した。
もう何も言うことはない。
戦術などない。
ただただ力に身を委ねて、攻める。

方針
各方面を攻める。

1560年11月
最南端の種子島家を滅ぼして、浅井の天下統一は完了した。
十年と七ヶ月。
当初の目的だった(?)六角潰しも、ザッパリと果たした。
結局長政の登場前にことは全て終わり、長政の能力が無意味になってしまった。
これも戦国、あれも戦国。
ものごとは全て「戦国だから」の一言で片付けられる。
十年以内に終わらせることも可能だっただろう。
北条・大友・島津を少し押した時点で臣従させておけば、十年かからずに終わっただろう。
何故そうしなかったのか…。
それは戦国だから。
先程気づいたのだが、浅井の領地で直轄地だけを注目すると、ある帯が見える。
そう、「太平洋ベルト」だ。
若干位置が異なるものの、基本的にそう見える。
何故…
それでは皆さん声を合わせて、せーの!
「戦国だから」




2007年8月15日 著者 退助