●●●1550年4月●●●
宇喜多家は備前浦上家に臣従していた。
この非常に位置の悪い(運が悪い?)宇喜多家でどこまで行けるか…。
まさに足掻き。
沼城か…、もっといい名前なかったのか。
しかしながらホントに位置が悪い。数年したら三好が北上してきそうだし、但馬山名も…怖い。
なにより一番の敵は庄家だ。
しばらくは庄家との石高争いになりそうだ。
当主の宇喜多直家の智謀8が魅力的だな。
5年以内に備前統一を図る。

■■■方針■■■
臣従は勝手に合戦に駆り出されるので、従属にしておこう。
今回は従属を駆使しないと備前統一も危うい(マラウイ?)かもしれない。
従属の相手はその時々によって変える。
まずは砥石山城、岡山城の攻略だ。
●●●1551年1月●●●
岡山城を落とすのに10ヶ月もかかってしまった
砥石山城はあと敵兵を30まで減らしたのであと1ヶ月で落ちる。
さて備前浦上家が何か南下してきそうなので従属するか…
いや待て、そうなると庄家、松田家、伊賀家の3方向から攻撃を受けてしまう。
仕方ない松田、伊賀と不戦状態の庄家に従属するか。
従属って不戦同盟の時の金もいらないし便利だな。
何で今まで使わなかったんだろ。
■■■方針■■■
なるべく金を使わず兵を使わず…。
港を早く得たいので常山城、直島城(直島には港あり)と進出。
三好と接触したら三好に従属。
●●●1551年11月●●●
砥石山城は力押し、常山城は横取り作戦でほぼ経費ゼロで取ることができた。(ラッキー)
当然、金光と上野の二武将も手に入れ順調だ。
武将は五人になった。
嗚呼…引き抜きっていいなぁ。
このまま直島城と進みたいがその先の星ヶ城に三好の大軍が控えている。
慎重に進まないとすぐに滅亡だ。
■■■方針■■■
三好とは戦いたくない。
厄介な敵だ。
とにかく早いとこ港を取って基盤を丈夫にしよう。
その後はとりあえず備前統一かな。
●●●1553年2月●●●
直島城を三好家との微妙なやりとりの後に手中に収めた。
これで港が1つ。あとは軍団に任せよう。
郎党がまだ出てきてないので兵が0の武将を軍団長に。これでしばらくすれば資金がたまるはず。
あと備前浦山家が後藤家に攻められ、備前の天神山城に追いやられていたので攻撃したら3ヶ月で落城アンド滅亡。
これで石高は17万。庄家は20万。まだまだだな。
とりあえず美作に侵攻して庄家の勢いを止めなければ。
後藤を攻めよう。
■■■方針■■■
本願寺、小寺など不戦が組みきれてないのでなるべく沢山不戦の状態になるよう、従属の相手を考える。
庄家より先に美作に踏み入れ、兵を進める。
●●●1555年10月●●●
庄家が中村家攻略に時と兵を費やしているときに、宇喜多軍はあらゆる戦略を使い進軍していった。
そして三好に従属し、稲荷山城を攻略し庄家の退路を塞いだ。
さぁ独立して岩屋城を横取り作戦だ!
いけぇ!経費ゼロ!
妙に調子いいな。そろそろ落とし穴がありそうで怖い。
■■■方針■■■
美作攻略
> ●●●1555年2月●●●
矢筈城、岩屋城、高田城、江美城、楪城を一気に攻略した。(たった4ヶ月で)
現在は三好家にお世話になっており、そのお陰か結構いいかんじである。
楪城方面は庄家がおり不戦中なので行けない。
よって、伯耆の方に進もうと思う。
尼子がかなり毛利によって追いつめられている状況なのでここは漁夫の利を得る作戦で行こう。
■■■方針■■■
尾高城は普通に落とす。
その後、おそらく米子城に尼子、毛利の兵が集まり尼子が滅亡する。
つまり毛利が尼子の最後の城を潰すところで横取りするのである。
なかなか悪人だな。
●●●1556年4月●●●
作戦完遂図の一歩手前まで完璧だ。
予想通り尼子が毛利に負け、美保関に追いつめられている。
さぁ美保関に出陣だ。
これぞ三国志か?
中国の覇者が決まる。もちろんここで毛利に負けるようなら天下など夢のまた夢。

美保関の戦い
毛利軍と尼子軍の戦いに宇喜多軍が乱入してきた。
尼子軍は美保関に追いつめられ、兵糧も残り少なくなっていた。
もはや尼子軍に息は無かったと言っていい、よってこれは宇喜多と毛利の戦いだ。
毛利軍大将「毛利元就」。尼子軍大将「尼子国久」。宇喜多軍大将「宇喜多直家」。 毛利軍1万8千。尼子軍5千。宇喜多軍2万6千。
ただ宇喜多軍だけは鉄砲を一挺も持っていない。
時は乱世。勝てば官軍、負ければ賊軍。
負けることは許されなかった――
■■■方針■■■
毛利元就の奇襲には絶対的に警戒態勢だ。
こちらが勝つためには毛利軍と戦い、尼子軍とも戦い勝たなければならない。
毛利の進軍をとめる。
●●●1556年10月●●●
美保関の戦いで勝利の凱歌をあげた宇喜多軍は白鹿城、富田月山城を奪取し、尼子の武将数名、毛利の武将数名を手に入れた。
使えそうなのが小早川隆景(智謀7)だ。
これで港も3つ船も30艘できたので徴兵も大胆に出来るようになってきた。
しかし当然鉄砲は高い。八月頃には赤字になってしまった。
さて、毛利が大内に併合されかけているな。
仕方ない、ある程度城を取って、大内軍が宇喜多を攻めてきたら従属するか。
しかしそうなると大内以外の全勢力と戦うことになるな。キツイ…
しかし!やるしかない!(妙に正義感に溢れてる)
■■■方針■■■
どれだけ上手い駆け引きが出来るか。
大内と従属アンド三好、六角と多少戦線が長くなるが巧妙に攻める。
もうここら辺で統一は無理だと判断。石高5位を目指す。
●●●1557年10月●●●
宇喜多得意の奇襲戦法で熊野城、布部城、三刀屋城を攻略。
大内の本体が到着する直前に従属→対三好、六角外交開始。
急ぎ戻って特に三好を攻撃しなければ大内が島津を喰って四国に乗り出してくる可能性がある。
■■■方針■■■
備前、播磨攻略。
所々に敵城があるので兵が分散されてしまうので一つ一つ素早く攻略。
●●●1559年4月●●●
備前、星ヶ城を攻略するのにかなりの時間がかかってしまった。
只、星ヶ城という防衛の面で非常に便利な城を得たというのは大きい。
ここで石高は85万石。八位だ。
一位は大内の200万石…。勝てない。
武将数は41でダントツの一位だ。兵力も一位だ。資金不足…
都合良く大内が三好と不戦してくれたので良かった。
とりあえず三好からは手を引いて、六角を攻めよう。
■■■方針■■■
六角へ。
星ヶ城は兵、兵糧満タンにする。いつ攻められても5,6ヶ月は持つように。
●●●1560年2月●●●
上月城、竜野城、室津城を攻略。
因幡方面も同時進行。
大内がいつの間にか400万石突破しているのが気になる。
というか、いつうちに攻めてくるか心配だ。
いや!絶対に臣従はしない!いやだからな!
■■■方針■■■
小寺家はほっといて新天地播磨へと進軍。
さぁそろそろ因幡軍と合流する時期だ。
●●●1561年11月●●●
何とか播磨は攻略したがいよいよ大内が恐怖になってきた。
500万石…。毛利元就…。
さて二つに分かれていた軍がやっと一つになり攻撃先もはっきりした。
よし!攻撃!と行きたいところだが、
流石に大内をこのまま野放しにしてもおけない。
どうすれば、大内を…。
■■■方針■■■
この策を成功させるしかない。

 天下半分の計 


「半分じゃないだろ!」というツッコミは覚悟している。
昔読んだ三国志を参考にした(パロった)策。
大内家は九州、中国・四国の西側を既に手中に収め、大内が次に狙うのは畿内である。
これはもう明らかなので、その行く手を何とか阻もうというもの。
そして、大内と同盟を組めば、大内は勢力を現状以上にする事は出来ない。
現実的な策ではあるが、問題点は次の二つ。

・大内より先に四国を分断できるか。
・大内が同盟を組んでくれるか。

大内は宇喜多の2〜3倍の勢力だ。
この状況で策を遂行できるか。
●●●1563年3月●●●
淡路・讃岐と奇跡の進軍を宇喜多軍は続け、何とか大内より先に阿波に進出。
そして見事に分断したのだ。
同盟は不可ということで、大内の傘下にはいった。
策は成功した。
この時点で大内600万石、織田300万石
大内はしばらくは大丈夫だろう。
これより、畿内に向かう。
既に畿内には但馬山名と六角、それに北畠まで入り交じっての混戦模様だ。
そいつら全部と交戦状態になるのは今の武将数、兵力から見てかなり厳しい。
織田も大勢力になってきていて危険だ。
織田には有能な武将が沢山いるからな…。
■■■方針■■■
大内に外交関係破棄されないよう尽力。
とりあえずやり残した讃岐を統一してから、摂津へと進みたい。


●●●1564年7月●●●
とりあえず讃岐の城をほとんど落とした。
これにより、大内を他勢力と完全に隔離した。
…作戦完了。ミッションコンプリート。ってやつ。
讃岐での攻防戦で収穫があった。
三好家の奸臣(?)、松永久秀を手に入れた。
彼は天下でも有数の智謀の持ち主だぁ。
■■■方針■■■
大内は勝手に内政でもしてろ。(怒?)
というわけで摂津→東日本で行く。
この時点で織田350万石…。
やばい。
●●●1565年5月●●●
堺→岸和田軍と、堺→高野城軍に分けていく進んでいくことに決めた。
岸和田軍は紀伊を。高野城軍は織田の足止めを担当。
紀伊には猛将が隠れていると聞く。
是が非でも配下にしなければ…。
それにしても、織田の鉄砲数には恐れ入る。
■■■方針■■■
鉄砲を生産して、これからは大将の能力に頼った戦ではなく、
遠距離で戦い、消耗を少なくしていきたい。
織田に城を一つも取られるな。
●●●1565年9月●●●
石山城、若江城、堺、三好の勢力を上手く利用して織田の武将を大量捕獲!
勢いに乗って足止めどころか城を取ってしまった。
恐るべし、勢い。
それにしても鉄砲の威力は多大だ。まったく恐れ入る。
それに引き替え、紀伊侵略軍は敵に奇襲をもちいれられたりして足踏みしている感じだ。
仕方ない、少し兵を割くか。
■■■方針■■■
時間差攻撃!…じゃなくて…。
時間だ〜。一刻もはやく紀伊統一を目指す。
●●●1565年12月●●●
太田城にて、ついに猛将雑賀孫市を手に入れることができた。
もはや日本に宇喜多軍に武将で勝てるのはいないのではないかと疑ってしまう。
それにしても紀伊の勢力は手強い。
石高も思うように延びない。
くそ、肥沃な大地はいったい何処に…。
■■■方針■■■
紀伊統一。織田の進行を阻む。
●●●1567年1月●●●
紀伊統一まであと一歩。
思ってみれば紀伊を統一するだけで2年…。
思ってみれば兵はいつもの2分の1…。
思ってみれば当然…。
思ってみれば早い方…。
■■■方針■■■
後顧の憂いもきれいさっぱり無くなったし、さぁ織田と戦いますか。
(その前に新宮城だろ!)
●●●1567年2月●●●
おっ!
織田軍が河内に集中してる。
コレはチャンスだ!
一気に大和-yamato-(?)を潰す。
■■■方針■■■
大和が手薄の今、叩くしかない!

●●●1569年1月●●●
河内は必要最低限の兵を置いて全力で大和を攻めた。
その結果がコレだ。
おおっ!
上手くやれば織田を全滅させられるんだじゃないか?
上手くやれよ!宇喜多直家!
淀城からとりあえず、山城・河内・摂津を使って根性で領地拡大。
河内の要所、若江城は絶対に敵の手に落ちないないよう万全の注意を。
■■■方針■■■
後しばらくは織田と鉄砲勝負をする事になると思われる。
鉄砲をどれだけ多く使えるか。
量の勝負だ。
●●●1570年4月●●●
織田に上手く逃げ出されてしまった。
「織田殲滅作戦」失敗――。
洛中を拠点に織田軍は我が軍を攻撃してくる。
洛中さえ取れば…。
とか言いながらも、ちゃっかり津田城を取っている始末。
■■■方針■■■
ええぃ!山城を取ろう!


●●●1570年11月●●●
山城の攻防だけで、7ヶ月も経ってしまった。
くっ…。山城…。
しかし7ヶ月間我が軍は何もやってなかったわけではない。
敵の拠点洛中を落とし、亀山城と槇島城、中尾城を分断した。
その行程でちょっとした策を用い、織田信秀、織田信長はじめ沢山の優秀な武将を捕虜にした。(注・織田家の現当主は織田信行)
今彼らは、最前線にたっていてかなりの働きをしている。
これで、ちょっとは楽になるはず…。
河内方面も、着々と城を奪いつつあり、あと飯盛城だけだ。
それと今気づいたのだが、我が軍はまだ建部山城(丹後)、福知山城(丹波)に兵が居たんだった。
そうだ、織田信長をそっちの方面に行かせ、指揮を執らせよう。
残酷か?
■■■方針■■■
丹波、丹後、山城攻略。

●●●1571年7月●●●
織田信長軍団が丹波を制覇しようとしている。
やはり人選は誤っていなかった。
褒美を取らせねば…。
丹後はちょっと足が止まってるように見えるが、実は作戦だ。
ある程度攻めさせておいて、挟み撃ち…。
残酷か?
山城はやっと攻略することが出来た。
次は穀倉地帯(四国志では)の近江だ。
近江96万石、丸ごと盗るぞ!
…盗むの?!
■■■方針■■■
近江は鉄砲も生産できる。
つまり、此処を盗めば(もういいです)、織田の鉄砲生産能力はガクッと下がるはず。

●●●1572年7月●●●
一気に近江は洪水がなだれこむような形で進出いった。
もう全部、強襲ですが。
若干、織田信長軍団が遅れているような気もしますがまぁそこはだまっときましょう。
近江の肥沃な大地を加えて石高は、366万石。
ついに織田を抜いた。(織田は329万石)
実質、もう織田の兵の志気は低く。
ぽーこ あ ぽーこと落ちて行く城。
しかし東日本の行方は混沌としていくなぁ。
北から猛烈な勢い南下してくる南部家(266万石)。
北陸、信濃にかけて巣くっている朝倉家(231万石)。
関東を中心に同心円上に勢力を伸ばしている北条家(226万石)。
そして重臣が殆ど居なくなってしまっている織田家(329万石)。
僕の予想では、南部→朝倉・北条→織田と圧迫していく模様。
この乱戦からどう天下を狙っていくか。
しばらくは織田家を怒りを込めて攻めることになります。
■■■方針■■■
織田を蹴散らせ。
というか他勢力を蹴散らせ。

●●●1573年9月●●●
結構順調に兵という駒を東へ進めている。
観音寺城、朽木谷が堅固ではあったが。
信長軍団は若狭に進出し、本軍と合流。
このあとは越前→加賀へと向かわせる。
伊勢にいる北畠を攻撃していたら大内に従属されてしまった。
なぜだっ!いいとこなのに!
…はっ!北畠と身分が同じだ。
ノォォォォォォォ…。
というわけで(どんなわけだ)、伊勢に進出。
今回の進軍でまたも織田家の武将をゲッツ!
今気づいたが、直轄での石高は宇喜多が一位だ。
…。
■■■方針■■■
近江の残り半分を制圧。
伊勢の残党を制圧。
●●●1574年2月●●●
伊勢の北半分を制圧。
おのれ北畠…。
上手く逃れおって…。
いつか潰す。
信長軍団も順調に若狭を統一し、越前の朝倉家を攻めている。
その割に、本軍(近江制圧軍)の侵攻が遅い。
織田め…目一杯の抵抗をしてくる…。
予想通り(予想通りなのか?)、南部が北条と朝倉の両方を攻めている。
そして織田は5位に転落。
宇喜多は444万石という嫌な数字。
大内は相変わらず600万石。
可哀相に…。(お前のせいだろ!)
■■■方針■■■
東日本には、宇喜多の敵となる大名はいない…とはいえ、どこも何百万石の大名なので油断はできない。

●●●1574年11月●●●
近江全土をやっと、統一できそうだ。
近江では才気ある沢山の武将が討ち死にしていった。
そんな場所なんだ。(なんだ。)
最終的に兵を此処に集めてやっと統一できた。
94万石は伊達じゃない。
とはいえ、この地で何人もの織田の武将を得られたのは感謝したい。
なんなんだ。
■■■方針■■■
…。いや、方針といったって。

●●●1575年6月●●●
すべてが上手くいくときというのはあります。
今が宇喜多直家のその時です。
石高は550万石に膨れ上がり(嫌な言い方だな)…。
大内との差を50万石まで縮めた。
このまま行けば…。 今や宇喜多軍は一人につき鉄砲千挺を持たせているほどにまで…。
えっと今武将90人居るから…。
…90000挺?!
そうか近江を手に入れてから爆発的に鉄砲生産能力が上がったもんな。
■■■方針■■■
はい、鉄砲生産能力と一緒に爆発しましょう。
ぼっかーん。

●●●1575年9月●●●
面白いように織田は潰れていくな。
蛻の殻…
美濃はボコボコと攻めていける。
これも近江で織田を打ちのめしたおかげか。
包囲軍がキレイだ…。
尾張も同時進行できている。
本当にこいつらよく働いてくれていると思う。
■■■方針■■■
このまま崩れずに、東へ…。
崩れたら一気に終わるな。この戦線ラインは。

●●●1576年1月●●●
伊勢に向かっていた軍は着々と駒を進め尾張を攻略している。
ここ尾張は織田の本拠地だったためか、相当に守りが堅い。
特に清洲、那古屋が。
恐るべし…織田の執念。
鉄砲を独占しているのは宇喜多と大内。
やはり生産地を得ているのが大きいな。
大内…?
…。
おおっ!石高が一位になっている!(気付けよ)
宇喜多620万石、大内615万石。
大内に未だに従属しているが、実は配下の方が石高高いってのも…。
策が功を奏したな。
しかし楽観できたものじゃない。
南部が380万石、北条が330万石と奴らも石高をあげてきているのだ。
予想通り、朝倉が宇喜多と南部に攻められ、170万石に。
哀れなり。
■■■方針■■■
下克上…の時まであといくつ…。
(方針じゃねぇ!)

●●●1576年8月●●●
(だんだん間隔が長くなってきてるな…。)
信長軍団は、やはり有能だ。
越前をさっさと通り抜け、加賀まで来ていた…。
朝倉はもう終わりだ。
上下左右から一方的に攻められ、火消しに回っているがそれでも火は止まってない。
朝倉包囲網か…。
■■■方針■■■
本軍は美濃から飛騨に進出している。
このままいくと2、3ヶ月後あたりに南部とぶつかりそうだ。

●●●1576年9月●●●
今月いきなり、織田が北条に臣従。
よって宇喜多は北条を戦うことに…。
刈谷・岡崎の戦い
宇喜多軍21.5万、北条軍25万。
今回が北条と宇喜多の最初の激突である。
両勢力とも、はるばる遠い所からやってきた。
さてさて…。
■■■方針■■■
兵力から言って、正直辛い戦いになるだろう。
差が4万もあるとは思わなかった。
我が軍の頼みの綱は鉄砲か。

●●●1576年11月●●●
刈谷・岡崎の戦いは我が軍の奇襲が成功し、何とか勝つことが出来た。
刈谷は兵糧攻めで一ヶ月でおとせた。(もちろん捕虜ゲット)
だが手強いもので、岡崎がなかなか落ちない。
もたついてるうちに関東から北条の援軍がついて行く手を阻んでしまった。
上之郷の戦い
宇喜多軍9.5万、北条軍9万(本軍+救援軍)
北条軍は刈谷・岡崎の戦いで受けた打撃が強かったのか、まだ兵が回復していない。
チャンスだ。
■■■方針■■■
遠距離攻撃で倒す。

●●●1577年5月●●●
上之郷の戦いで圧倒的な勝利あげた宇喜多軍は北条軍を文字通り圧倒していった。
岡崎城、作手城も落とし、北条と宇喜多の戦いは勝負がついた。
2度の戦いで両軍はかなり消耗した。
ここで不戦同盟を組んでやるのが情というものか?
…やなこった。
田峯に北条が兵を集めている。(まだやるのか。)
これは野田→長篠とすすんで、挟み撃ち作戦だな。
■■■方針■■■
北条軍の領地(織田)を攻略。

●●●1577年7月●●●
挟み撃ち作戦の実行中だが、実は戦いは三河だけで起こってる訳じゃないんだ。(当たり前だ)
美濃を攻略中の本軍も信濃にいつの間にか進軍していて、ちょうど南部家とぶつかって、今。戦いの火蓋が切って落とされようとしている。
ついでに朝倉も信濃にいて、めんどい事になっている。
悲惨な戦いになりそうだ。
宇喜多・南部・朝倉の有力大名が此処でぶつかりあう。
とは言っても、朝倉と南部は不戦同盟しているので実質、宇喜多VS南部+朝倉同盟軍となる。
いくら鉄砲で勝っていようと、多方向から攻められればかなり不利になる。
まして相手は屈強な…東北兵。(本当か?)
辛いものがある。
しかし宇喜多としてもここで負けるわけにも行かない。
兵が前線にすべて集められている上に、大内が裏切ったら2,3ヶ月では戻れないのだ。
何としても此処は勝ちを収める。
甲信越の戦い
広大な甲信越全域で戦いが繰り広げられたことからそう呼ばれる。
宇喜多軍22.8万 南部+朝倉同盟軍35万
さて、実際には朝倉と南部は不戦同盟を組んでいるだけなので、連携して攻撃などはしてこないでしょう。
ココです!ポイントはココ!
よく見ると、深志を宇喜多軍が攻めて兵糧攻めにすると南部家の武将は退却する場所がない。
ココを利用しまくって南部家を潰すんです。
もう朝倉は策を用いなくても倒せるだろう。
■■■方針■■■
地形を利用りよう!なんちゃって。

●●●1579年6月●●●
一旦、深志へ攻め込み奇襲で兵糧攻め→落城させたあとわざと、 深志・福島を敵に落とさせ、武将が福島・深志にたまったら再び福島で兵糧攻め→武将ゲット! →福島わざと落とさせる…とやっていく。
当初22万いた我が軍の兵が15万に減っている。
やはり、南部家は相当強いと言うことなのか。
このままでは補給が間に合わない。
南部は援軍が東北から来ている…く。
準備が足りなかったのか…?
いや今更後戻りも出来ない。
死んだ人は二度と生き返らない。
朝倉は順調に消化していった。
序盤は真田昌幸の奇襲に何度も遭い(多分兵の減少の原因コレ)、無駄に強襲の日々を繰り返していたが、 援軍として明石全登を大将にしていくと奇襲だけは免れたのでそのまま攻めた。
真田らは甲斐へと退却し、完全に北陸と隔離した。
だが、甲信越の戦いはまだ終わっていない。
真田昌幸にいつ奇襲をかけられるか分からないし、東北から南部の援軍が続々と来ている。(御厨にいるのは全部そう)
ここからだ。
■■■方針■■■
南部の兵力が底知れない今、できるだけ節約していきたい。

  ●●●1580年5月●●●
戦線の長さにももう慣れ、だんだん波に乗ってきた宇喜多。 三河でひと戦やっていた地を遙か後方に仰いでいる。 既に駿河、遠江まで進出している。 北陸の軍は少し、他の二軍に比べ遅れ気味だが問題ないだろう。
石高は850に達し、大内を遙か後方に――。
そうだな…。北陸に少し援軍を差し向けるか。
スムーズに関東・東北に入りたい。
そのためにも戦線をなるべく確立させていくべきだな。
さて信濃だが…南部はだいぶ傷を負ったな。
主力武将の大半をこの一年で失った。
甲信越の戦いも終わりが近い。
信長軍団もそれなりに進んでいる。
越中まで来た。
■■■方針■■■
戦線…バランス…。

  ●●●1581年8月●●●
甲信越地方を宇喜多家が完全制覇し、甲信越の戦いは幕を閉じた。
武将が10人もいない北条はもう敵ではない。
何故10人以下…?
何様だ、という感じで宇喜多は侵攻してます。
南部の武将は郎党が99パーセントなので郎党出現しない設定にすればよかったなぁ、と今更ながら後悔。
このまま蹂躙したい…。
何事も武力なんですよね。戦国時代は。
武力さえあれば何でも出来たというか…。
わかりやすいと言えばわかりやすい…。
■■■方針■■■
兵力の消耗を防ぎつつ、侵攻。

●●●1584年6月●●●
信長軍団は越後まで進出し、信濃の軍と合流。
1971年、丹波で別れた以来、13年ぶりだ。
信長も年を取りましたな…。
50歳ですか…。
とっくに死んでるくせに…。
信秀まで生きてやがる…。74歳…。
えっと今、宇喜多軍で最高齢は北条幻庵の91歳…。
いい加減、引退しろよ…。
宇喜多の武将、半分以上が50歳以上…。
何て、高齢化の早い大名なんだ。
ちなみに当主の宇喜多秀家は12歳…。
最年少です…。
■■■方針■■■
幻庵が死ぬ前に東日本統一。
●●●1586年6月●●●
武将が極端に少なくなった南部家は脆い。
あっという間に東北に進出していた。
今思うと大内といざ戦うとき、北畠とか三好とかが非常に邪魔になる。
後悔先に立たず…。
大内は長い間、戦争がなかったので資金は有り余っている。…。
現段階の総合力としては互角…かな?
資金、兵力、鉄砲、民忠から見て。
早いとこ、東北を統一してしまおう。
■■■方針■■■
幻庵は今93歳…。
いつまで生きるんだろ。
●●●1588年3月●●●
1年半が経ち、出羽辺りまで兵を進めた。
何故か、臣従志願をしてこない。
自尊心が高いのかな…。
"○○○ん"みたいに。
何だかんだ言いながら、1500万石。
大内は未だ600万石前後
確か78年くらいから600前後だったような…。
20年間石高変わってない…。
■■■方針■■■
幻庵は今95歳…。
あんた何人だよ。
●●●1590年12月●●●
南部家を潰した。(郎党はロシアにでも逃げたのか?)
これで東日本を手中に収めたことになる。
そして、ゆくゆくは…

残るは大内家と三好家となったか。
■■■方針■■■
まず大内から独立、そして三好に従属する。
大内を攻め立て、滅ぼした後に最期に三好を潰す。
●●●1594年7月●●●
思ったよりもすんなりと大内を滅ぼすことができた。
次々と寝返ってくれたからな。。
さてと、最後の仕事がまだ残ってる。

幻庵はいつのまにか死んでしまった。
討ち死にではない。

衰弱死?
■■■方針■■■
三好。
●●●1595年8月●●●
百人余りで三好を包囲したら、直ぐに従属、臣従であっけなく天下を治めた。
宇喜多秀家23歳のことであった。
▲▲▲感想▲▲▲
「こちらNHSアナウンサーの退助です。こちらは先刻、天下を統一された宇喜多秀家さんです。こんにちは」
「こんちは、宇喜多秀家っす」
「秀家さん、天下統一を成されたご感想は」
「チョー気持ちいい!!」
「50年にわたる宇喜多家の奮闘の歴史で一番、辛かったのはいつ頃ですか」
「父から聞いた話なんすが、大内の野郎の全盛期だった1560年頃っす。
パワフルな大内の野郎にパワーでは勝てないからと、ちまちまと策を弄して嵌めたらしいっす」
「へー」
「…」
「批評家の中には、宇喜多氏がここまでこられたのは直家さんの功績で、秀家さんはたいしたこと無いと難癖をつける輩もおりますが…」
「確かにオヤジはスゲェ奴だったんすけど、オヤジの死んでからたった10年で統一できたのは俺の手柄なんすよ。やっぱ俺凄いんす」
「有能な部下が沢山いたからという意見もありますが」
「それを含めて俺凄いんす」
「…」
「…」
「で、では最後に天国の父、直家さんに一言」
「チョー気持ちいい!!」
「ありがとうございました、宇喜多秀家さんでした」

2007年8月6日 著者 退助 完