●●●1550年4月●●●
真田幸隆は非常に武略の優れた武将であった。
その武略の才は晴信に評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けるとともに、武田家中でも一目置かれ「攻め弾正」の異名で呼ばれた。
享年62。
真田城というわずか2万5千石の規模で戦国を生き、天下に覇を唱えんとする。
ただ、あまりにも地勢がわるい。
互いに啀みあっている、武田家と上杉家の境に位置し今にも潰れそうな大名である。
武将も真田幸隆ひとり。
のちのちに真田昌幸、真田幸村などの世にも聞こえた武将がでてくるのだが、それはだいぶ先のこと。
それまで大名として生きていられるか微妙なところである。
ズバリ!目標は城3つ!。

邪道だろうが何だろうが、とにかく城をとればいいんじゃぁぁぁ!!
■■■方針■■■
まず武田家との臣従関係を一旦うち切るために独立してその後、村上家と根性で同盟する。
同盟に成功したら、あとは小諸城を落とすことだけに勢力を注ぐ。
武田家が戸石城を攻めるようになるまでして、それから武将移動で退却→出陣の繰り返し。
小諸城の兵が0になるまでやらないと落ちないので途中で援軍が来たら、即終了→ロード。    今回の目標はあくまで城をとることなので、経済や民衆支持率などはほったらかし。


●●●1550年9月●●●
ゲームの中では5ヶ月しか経っていないが、実際は40分くらいこの小諸城を落とすのに費やしてしまった。
実際、最初の村上家との同盟で10分を使った。
その後、毎月援軍が小諸城にこないことが絶対条件なのでそれをするのに30分。
城を落とすのも苦労するんだなぁ。(違う意味の苦労だが…)
守備兵を0にさせたと思ったら自分も0になっていた。
しかしなぜか陥落させることができた。
こんなんでいいのか?
何故か郎党がでてきた。
まぁ武将不足にはいいけどな。
さて二個目の城は何処にしようかなぁ…。
■■■方針■■■
このあと、内山城を取ろうといろいろ30分間くらいやっていたのだが、後一押し!ってところで信玄の援軍が来てしまう。
何度やってもダメだったので、今度は村上家に目を向けることにした。
村上家は現在城3つで武将は5人、なかなかの強敵だ。
だが、今は御厨城を4人で攻撃しているので残っているのは村上義清ただひとり。
だがこいつがなかなかに曲者で武勇7ときてやがる。
おまけに兵も千人もついていて、なかなかに手強い。
そこで考えた。 まず潰れそうな仁科家に従属する。
仁科家は武田と不戦同盟を組んでいるので自然に武田家とも不戦状態になるので都合がいい。
どうせ、あと1、2ヶ月で仁科家は潰れるだろうから晴れて独立できて武田とも無料で不戦同盟をくめるのである。
組んだら、早速幸隆で戸石城を攻める。
おそらく村上も真田城に攻めてくるだろう。
その性質を使うのだ。
真田幸隆が、700ほどの兵を率いて出陣する。
そして奇襲をして相手の守備兵を減らす。
一方村上義清は真田城を攻める。
真田城は守備兵が約千いるので兵糧攻めをする。
次の月になると、村上家はかならず退却する。
戸石城が先に落ちると読むからだ。
そこでこちらも退却して村上家の武将に戸石城にはいらせないようにして、うまく追い出す。 あとは同じように退却→出陣→退却→出陣…と繰り返す。
●●●1551年8月●●●
武田と国交(?)が回復したのでその下にいた府中小笠原家の武将、小笠原長時が仕官してしきた。
佐奈だけは武将不足で悩んでいたときに…思わず拳を握ってしまった。
さてこれで武将は3人。
兵は9月には0だったが一年もたつとさすがに増えている。
千を超えるほどになった。
ほどなく、戸石城攻略も軌道に乗り、だんだん最初のような困窮した状態から抜け出せそうな気がしてきた。
■■■方針■■■
例によって援軍がくるのをなんとしても防ぐ。
たとえそれが邪道だったとしても――。
石高のわりに兵が少ないのでしばらくは金はなんとかなりそう。
目標達成まであと少し…。
●●●1551年10月●●●
目標達成!
戸石城を何とか落とし、これで真田家は城3つの身となった。
この状態で最初から出てきてたら結構楽だったのに。
武田が結構いい働きをしてくれて、村上家をうまくひきつけてくれた。
ありがとう信玄、あんたは名将だ。
城3つ。石高は9万千石。
最初の2万5千石を思うと、ものすごい急成長である。
さすが真田。
天下に名高いだけあるな。
■■■方針■■■
さて、目標も達成したしここで終わるか…。
何かしっくりこないなぁ。
うーん。
●●●1551年12月●●●
目標達成はしたがやはりここで終わらせるのは男として許せないな。
というわけで行けるところまで行こう。
目標は石高ベスト10に入ること!。
現在は42位なので、かなり過酷な戦いになるだろう。
兵も徐々に集めつつある。
…村上家を攻めていこう。
■■■方針■■■
まずは葛尾城を攻めている。
この展開だと武田家に武将を取られることになるが、武田家との関係を保つ意味で重要に…。(CPが認識できるかどうか微妙だが)
例によって退却→出陣でいく。
●●●1552年6月●●●
葛尾城陥落。
これもやはり武田との絶妙なコンビネーションプレイで成せたのだろう。
武将を取られたが…。
この後は普通に海津城を攻める。
海津城は村上の城だが、今村上は海津城だけのちっぽけな弱小になっている。
村上は上杉に臣従しているが、その上杉はとなりの上野の国にいる。
よって1,2ヶ月では救援はこない。
今が好機!
真田の力を見せてやれぃ…。(?)
■■■方針■■■
とりあえず確実に飯山の守備兵を減らしていき、確実に城を落とせるようにしておいて強襲。
●●●1552年9月●●●
海津城は村上家の武将が救援にこなかったのですんなり落とせた。
現在石高は約12万石。
ついでに飯山城に立て籠もっていた村上義清を配下にした。
しかし武将はぜんぶでたったの4人…。
寂しすぎる。どうしたものか…
しかたない、禁断のあの策をやるか。
邪道だけど。
■■■方針■■■
武将集めをする。
とりあえず独立して来月に落ちる可能性のある大名に従属。
運がよければ頼って家来にすることができる。
武田家が攻めてくるが4ヶ月くらい持つように補強しておく。
今月の狙い目は松平家か?
邪道だ。
●●●1553年2月●●●
な、何か凄いことになってきた…。
武将が5ヶ月で10人に増えたのだ。
まず10月に突如、真田信綱が真田城に出現。(これは普通)
この月に今川家に主家鞍替。その結果今川配下の松平家が滅亡し、酒井正親が仕官してきた。(邪道)
11月、大和の柳生家に従属。柳生家は滅亡し柳生宗厳と柳生家厳が仕官してきた。(邪道)
12月、下野の壬生家に従属。壬生家は滅亡し壬生綱雄が仕官してきた。(邪道)
1月、大隅の肘付家に従属。肘付家は滅亡し肘付良兼が仕官してきた。(邪道)
2月、信濃の武田に滅ぼされた府中小笠原家の小笠原長時が突如仕官してきた。(運?)
…運命って怖いですね。
とまぁ五ヶ月経ってる間に何か飯山城も落ちていて、石高は14万5千。
…順調ですなぁ。
■■■方針■■■
武将は…もういいです…。
そろそろ小諸城と戸石城も落ちそうなので武田に従属します。
いやぁ、夢のような5ヶ月でした。。
この先は箕冠城かな。
ついに上杉と戦うのか…。

●●●1553年5月●●●
武田に従属。
以外にあっさり承諾された。
自分でいうのもなんだがかなり迷惑をかけてきたはずだが…。
とりあえず上杉の救援がくる前に箕冠城を落とした。
17万石になった。
上杉が越後に戻りそうにないのでこのまま侵攻。
■■■方針■■■
目指すは春日山!とその先の城!
ある程度、希望が見えてきたので本格的に天下をねらう。
まずは金だ!
世の中金?

●●●1553年12月●●●
上杉は天下を狙っているのか?
あまりの呆気なさにそう思わざるおえない。
これで春日山城と羽茂城にある港を使って交易ができる。
世の中金と船だよ、諸君。
とりあえず、船のことは真田家郎党軍団にまかせておこう。
こっちは領地拡大に専念しないと…。
石高は27万石。
その気になれば行けるもんだな。
■■■方針■■■
越中に進出している斉藤の動きに気をつけながら、椎名家と上杉家を攻める。


●●●1554年4月●●●
だんだん戦線が拡大してきたな。
不動山城と琵琶島城を陥落させ、勢いに乗る真田軍。
一方、イマイチ進軍の遅い110万石、上杉軍。
どうやら石高ほどの違いはないらしい。
現在、35万石。
越後って肥沃すぎないか?
椎名家は主家である上杉と今や完全に分断されてしまっている。
今が好機。
椎名を叩く。
■■■方針■■■
武田なんてどうでもいいんじゃぁぁぁ!!
(方針じゃない。)
●●●1554年6月●●●
上杉の抵抗が意外と強く。対上杉に兵を集めざるおえない。
与板城、北条城は奪ったが…。
石高だけは順調にあがってきている。
現在、43万石。
武将は今期2人増えた。
清水義高と神保長住だ。
相変わらず邪道に生きているが…。
…結構、調子いい。
■■■方針■■■
天下なんてどうでもいいんじゃぁぁぁ!!
(よくない。)
●●●1554年10月●●●
宮崎城を落とし、越中の隅っこを奪った。
斉藤が越中に兵を集めているので、同盟を組みたい。
巧く椎名家の持っている二つの城をとりたいが…。
貿易はまだ軌道にのっていない。
航海技術が全然足りないのだ。
坊津にさえ行けない。
船に弱いのか、真田家は。
資金も結構要る。
投資しないと…。
■■■方針■■■
さりげなく、黒滝城も攻める。
(さりげなく)。

●●●1555年2月●●●
魚津城と板倉城を奪い、頃合いをみて斉藤と同盟を組んだ。
ようやく航海技術も上がり、貿易収入が入ってくるようになった。
あぁ…投資した甲斐があった。
斉藤との同盟で結構金を使ったが…。
さぁ、越後だ。
上杉はなぜか北条といつまでもやり合っている。。
因縁の関係なのか…?。
総足軽兵数が2万3千人。
ちょっと増やしすぎか?。
上杉でさえ1万だぞ?
抑えよう。
■■■方針■■■
越中はこのあたりで終わりにして越後へ向かう。
上杉は椎名のようにはいかないだろう。
曲がりなりにも100万石の大名だ。

●●●1555年5月●●●
黒滝城をなんとか上杉を押さえ込んで落とした。
上杉軍、強し。
今まで信濃→越後→越中→越後と来たがその中でも一番強い軍だ。
智謀・武勇共に素晴らしい人材が揃っている。
特に武勇。
上杉謙信、柿崎景家、長野業正、上泉信綱、本庄繁長などである。
とんでもない集団だ。
周りに武田や北条がいなかったらとっくに天下を統一していたかもしれない。
自然、戦いは真田幸隆の智謀に頼ったものとなった。
まぁ邪道を使ったわけです。
■■■方針■■■
栃尾城を攻めた後、形勢をみて上杉と同盟を組む。
上杉が潰れすぎて、武田に上野を侵攻してもらっては困るのだ。
ある程度のダメージを与えつつ、同盟を組む。
その後は武田を攻める。
主家だった家を攻めるのは何となく忍びないが…。
●●●1555年8月●●●
栃尾城を落とした後、予告通り同盟を組んだ。
急いで信濃に戻り、武田との決戦を待つ。
作戦としては武田軍を内山城に引きつけつつ、御厨城と深志城を狙った。
何度も試行錯誤を繰り返した結果、巧くできた。
(文字通り、試行錯誤を繰り返しました。)
主家を滅ぼすのか?。
なんか、心が痛む。
これまで散々お世話になってきた大名に…。
…ま、いっか。
■■■方針■■■
内山城にひきつけつつ、短期間で御厨城と深志城を落とす。
武田の主力軍は隣の上野国にいるので、奴らが帰ってこないうちにできるだけ城を落とす必要がある。
●●●1555年12月●●●
松井田城は上杉と武田の兵を巧く使って横取り作戦で落城。
ついでに武田の武将7人が捕虜となりました。
←捕虜になった武田の武将
深志城はそのまま守備兵を減らした後強襲で落城。
ここまでは特に激しい戦いはなかった。
だが、ここからはそうはいかないだろう。
武田主力軍が上野国から帰ってきた。
いつ爆発するかわからない…。
真田家石高は77万石。
…9位です。


…9位?!目標達成じゃないか。
何だかんだいって結構行けるんだなぁ。
さて次の目標はどうするか…。
よし!「石高ベスト3」に決定!
■■■方針■■■
と、そのまえに武田なんだが…
●●●1556年8月●●●
この6ヶ月は壮絶だった。 御厨城は強襲で落とし――
深志の包囲を解き、林を攻めたて落とした。 だが…これからさらに壮絶な戦いが信濃で繰り広げられようとは、この時誰も予想できなかった。

信濃の戦い
武田家と真田家の両家の将来を左右した戦い。
真田軍5万、武田軍3万。
勢いでは圧倒的に真田が有利。
だが武田の武将陣も黙っていない。
武田には豪傑、策士がそろっている。
武勇では山県昌景、飯富虎昌、高坂昌信、原虎胤など。
智謀では武田信玄、馬場信春、武田信繁、内藤昌豊ら。
ありえないほどの鬼才を揃えた武田軍。
鉄砲数は真田0、武田2000。
これからどうなるのか、誰にもわからなかった。
わかっていたのはこの戦いの勝者が信濃の覇者となることだけだった。
■■■方針■■■
攻める。
先手さえ取れば、必ず真田は勝てる。
だが悠長にやっていたら、武田が息を吹き返しかねない。
内山城は後回し、先に上原城・高遠城を攻める。
●●●1557年2月●●●
五ヶ月目。 8月、先手を取った真田軍は上原城・高遠城攻めを始める。
不意を突かれた武田軍は撤退。
9月、真田軍は一時撤退の後、再び上原城・高遠城を攻める。
武田が内山から撤退したので、内山にも軍を派遣。
10月、高遠城落城、上原城・内山城は包囲されている。
武田軍は援軍を繰り出すが包囲軍によって敗退。
11月、上原城に武田信玄率いる援軍が来るが、撤退させる。
この敗退により、武田軍の敗色が濃くなる。
12月、已然、包囲軍が上原城・内山城にいる。
武田軍、兵力補充。
1月、上原城陥落。武田軍、韮崎に撤退。
■■■方針■■■
苦労しました。(方針じゃねぇ)
●●●1557年8月●●●
勢いにのる、真田軍。
内山城、松尾城、岩村城を次々と落とし、信濃を平定する。(福島は見逃してくれ!)
武田は無惨ともいえるほど、落ちぶれた。
石高15万石。
支配城数4。
…長年武田に仕えた武将は殆ど真田の捕虜となるか、落ちのびるかし、残っているもは15人。

これにて信濃の戦いは終わった。
下克上の世の中だから仕方ないでしょ!
そう、終わったことをウダウダ言うな!

■■■方針■■■
韮崎城、苗木城その他を落として武田家を滅ぼす。
●●●1558年2月●●●
上杉も強いと言ったが、武田もまた強かった。
粘りけが強い。(確か盾状火山…
今は、穴山家と小山田家は武田家から独立した。
そして武田家は戦国の世から姿を消した。
武田から得たものは多い。
武将は20数名。
鉱山は7000近く。
武田と戦ったことは真田にとってかけがえのない財産となった。(と思う…)

真田家現在168万石。五位…。
織田がのびてきてるな。
織田を止めるためにとりあえず相模にでるか。
■■■方針■■■
織田の進路を鬱ぐ(?)ために相模を攻める。
●●●1558年6月●●●
御坂城、下山城を落としたあと相模にでた。
相模の城は守りが薄かった。
本当に薄かった。
でなければこんな短期間で城をポコポコととれる筈がない。
守備兵450人…。

それにしても北条はぼろぼろだな。
武蔵を上杉・佐竹・里見から攻められ、相模を織田・真田から攻められている。
間違いなく終わった。
袋叩きってやつか。
■■■方針■■■
相模をできるだけ叩き、石高をあげる。
その後、武蔵に進出。

●●●1558年7月●●●
一ヶ月で…凄ぇ。
茅ヶ崎城、玉縄城、戸倉城、小机城を一ヶ月で…。
真田もつよくなったもんだ。
守りは薄いくせに、石高は高い。
最高の条件だね。
…2位。
それにしても僅差だ、接戦だ。
■■■方針■■■
武蔵での争いに巻き込まれるのは面倒だから、ある程度城をとったら北条と同盟しよう。

●●●1558年9月●●●
吉良家を臣従させ、権現山城、江戸城を落としたところで北条と同盟をむすんだ。
気がつけば、石高211万石
支配城数44。
武将数49。
総兵力20万。
鉄砲0挺。
そして当主真田幸隆。
よくぞ、ここまで獅子奮迅した。
だが戦いはまだ終わっていない。
大内204万石。島津202万石。織田188万石。三好183万石。朝倉166万石。斉藤164万石。
油断をしたらやられる。
まして相手は鉄砲を持っている。
戦になったら圧倒的に不利だ。
ここは領地を拡大して、鉄砲抜きでも勝てるようにしないと。
■■■方針■■■
織田を食い止め、攻め、滅ぼす。
織田の武将がほしい。
理由はそれだけです。
関東・東北は不戦同盟でも組んで、いつか臣従させます。
上手いことに西日本が3分してくれないかなぁ…。
●●●1559年2月●●●
織田との同盟を破棄し、駿河に攻め入った真田軍。
織田がうまく二手に別れてくれたのでよかった。
これで、伊豆に逃げた方はすぐに捕虜にできる。
相模に北条の城がひとつ残っているが、織田は攻める余裕はあるまい。
攻めは徹底する。
かならず野戦には武田信玄か真田幸隆を大将にして、勝つようにする。
手早く攻める。

さて今月、真田初の臣従に成功した。
相手は蘆名家だ。
臣従って気持ちいいなぁ。
■■■方針■■■
越後、信濃、相模、武蔵から武将・兵をどんどん駿河に動員して、一気に攻める。
もちろん、蘆名の兵も♪
●●●1559年8月●●●
…強い。
自分で言うのも何だが、強い。
この真田は戦国最強の軍だ。
織田家も強いはず…だが、真田の勢いと力にはかなわない。
駿河だけでなく、遠江まで攻めている。
6ヶ月で5つの城を落とした。
織田はなす術もない。

里見家・北条家・千葉家・小弓足利家・真理谷武田家・上総土岐家・勝浦正木家の臣従にも成功した。
石高は一気に297万石まであがった。
臣従って気持ちいいなぁ。
■■■方針■■■
駿河・遠江・伊豆を攻める。
●●●1559年12月●●●
とうとう、下田に織田の半数を追いつめた。(画像左)
恐るべき勢いであった。
一年もたたないうちに駿河を統一して…瞬く間に伊豆・遠江に進出。
遠江のほうも(画像右)、策が上手くいき、横須賀に12人の武将を追いつめた。
織田の全武将を追いつめたと言っていい。
織田は…終わった。


今期は上杉家・深谷上杉家・足利長尾家・藤田家・山内上杉家・惣社長尾家・上野長尾家・上野沼田家・桐生家・佐野家・皆川家を臣従させた。
…書くのが疲れる。
でも…気持ちいいなぁ。
■■■方針■■■
織田を攻める。
●●●1560年2月●●●
織田信長・織田信秀はじめ、十数名もの織田家の武将が捕虜となった。
だが、羽柴秀吉・佐々成政らは落ち延びて再び、織田の武将となった。
…どうしても真田の手先となるのが嫌か?
まぁいい。いずれ、いや、すぐに織田は真田によって併合されるだろう。

今期は越後の中条家・色部家・本庄家・鮎川家を臣従させた。

…なんだよ。言ってほしいのかよ。
仕方ない言ってやろう。
臣従って気持ちいいなぁ。
■■■方針■■■
武将の殆どいなくなった織田家は脆い。
攻めろ。

●●●1560年7月●●●
相手も手練れだ。
羽柴秀吉・滝川一益らはを中心に奇襲戦法を仕掛けてくる。
こちらに武田信玄や真田幸隆らがいなければ、攻めあぐんでいただろう。
危なかった。


…今期は臣従なしだよ!
仕方ないだろ!こんなご時世なんだから。
■■■方針■■■
大内は今、240万石。行ける。

●●●1561年4月●●●
野田城・作手城・上之郷城を強襲で落としたら織田が従属志願してきた。
この野郎…。今まで散々抵抗してきたくせに…。
だが、下手をしてここで時間を食うと大内に再逆転される恐れがあるので、渋々承諾。
翌月、臣従。織田と共に、水野家・犬山織田家も臣従。

と、いうわけで北畠家と戦うことになった。
北畠84万石。
勝負はすでに決まっていた。

伊賀惣国一揆の伊賀崎道順や拓植小四郎にさえ気を付ければ難なく行けるだろう。
東日本を早く統一したいなぁ。
■■■方針■■■
伊勢に侵攻。
今は時間が欲しい。
●●●1561年9月●●●
勝幡城、蟹江城を落としただけだが結構時間がかかった。
原因は伊賀惣国一揆だ。
奴らがいるお陰で容易に城の守備兵が減らない。
その分、侵略意欲が沸いてはくるが…。
その反面、着々と関東・東北を臣従し続けていった。
そして今月やっと関東・東北を統一。
晴れて、800万石にのし上がった。
佐竹と南部とアイヌが粘った。
なんて野望の強い奴らだ。
…斉藤従属しねぇなぁ。
■■■方針■■■
大内を抑えつつ(どうやって?)、自軍の領地を増やす。

●●●1562年3月●●●
伊勢長島城を奪い取ったら、直ぐに北畠は臣従してきた。
ついでに、六角家・長野工藤家・木造家・星合家・田丸家も臣従。
九鬼家は頑固に拒否し、伊賀惣国一揆はわざと臣従させない。
とりあえず、九鬼家と伊賀惣国一揆を攻めようというところ。
北畠が近江にも領地を持っていたので、近江に早々と進出できた。

斉藤と戦うと戦線が非常に広がるので戦わない。
それに斎藤道三・竹中重治・城戸弥左衛門・明智光秀らがいるので、危険。
いずれも智の将。
■■■方針■■■
ガンガン臣従して、経費節約。
タダで城を得る。
現在960万石。
内――直轄300万石、臣従660万。
…。
気にすることではない。

●●●1562年10月●●●
九鬼家は滅亡し、伊賀惣国一揆は死にかかっている。
何度も「伊賀惣国一揆が当家に臣従を申し出ました。受け入れますか?」のメッセージが。
ん?よく見ると、青色の部分に「臣従志願使者来訪」と書いてある。
気づかなかった。

それはともかく、近江から槇島城、洛中、勝竜寺城と進んだら、筒井家が臣従を申し出てきたので承諾。
調子に乗って、大和・紀伊・和泉・河内の大名を臣従させまくった。
興福寺門徒・十市家・河内畠山家・雑賀衆・根来衆…などなど。
石高は1000万を越し、天下は見えてきた。
大内、未だ279万石。笑止なり。
斉藤、未だ従属せず、頑固なり。
■■■方針■■■
斉藤は置いておいて、摂津と和泉に兵を進める。
いよいよ西日本…。
●●●1562年12月●●●
一気に近畿を制覇しようとする真田。
堺という近畿の、いや日本の主要都市を押さえるべく攻める。
僕の中では"堺・岸和田を得たら勝ち"というものができあがっています。
両方併せて13万6千石。
たった2つでですよ?
それに鉄砲も生産できるようになりますし…。
摂津にも真田の兵が入っていっている。
そして、東日本各地から真田家もしくは真田家に臣従している家の武将が集まってきている。
もはや止めるものは何もない。
■■■方針■■■
近畿制覇。
大内・島津と戦う準備。

●●●1563年3月●●●
堺・岸和田を押さえ、和泉を平定。
摂津制覇に兵をかなり動員。
そろそろ、三好が従属志願してくる頃だと思うが…。
武将も軽く200を越えている。
戦線を拡大しても支障はあるまい。
むしろしないと統一が遅れる。
それにしても斉藤は頑固拒否するなぁ。
はやく臣従させないと気分的にどんどんプレッシャーが。
後顧の憂いは断っておかないと。
■■■方針■■■
さっさと摂津を攻略。
四国・中国・北陸を攻める。

●●●1563年7月●●●
摂津を無事に平定した。
そして、一気に四国・中国に真田軍がなだれ込んだ。
本当になだれ込んだ感じ。
摂津→播磨(画像上)
摂津→四国(画像中)
摂津→丹波→丹後(画像下)

斉藤はまだだが、能登・加賀・越前にかけて勢力を張っていた朝倉を臣従させることに成功。
ほかにも三好家・阿波細川家・宮本家・安宅家・小寺家・丹波内藤家・若狭武田家
従属志願しくる奴らはすべて承諾。
すべては時間節約のためだ。

島津と大内…。
石高に差があるとはいえ、敵には九州、中国を統一した実力がある。 …。
よし、本軍は中国を攻めよう。
そして軍団を組織して中国を攻めさせよう。
武将は有り余るくらいいる。
そいつらを有効に使って早く統一しよう。
■■■方針■■■
本格的に西日本乱入。
大内・島津…。
●●●1563年11月●●●
四国に攻め入る軍団は新しく登場した真田昌幸に任せる。
人選は間違ってないような…。
16歳だけど。
昌幸軍団とこれからは書く。
総勢191人。
多すぎる?
悪いけど真田家の武将の半分以下だ。
昌幸なら問題なく四国を統一してくれるだろう。
中国を幸隆、四国を昌幸。
親子プレー。
とは言え、昌幸軍団の武将が東北から到着するまで1年くらいかかるので島津とはしばらく休戦。

中国に兵を投入したら、直ぐにたくさんの大名が臣従してきた。
大内への忠誠心薄っ!
相変わらず、斉藤は粘る。
もしかして最後まで粘るのだろうか。
■■■方針■■■
昌幸軍団の到着を待つ。
中国へはどんどん兵を進める。
力押し?

●●●1564年1月●●●
とうとう斉藤が従属した!
かなりの粘りだった。
敵ながらあっぱれ。
いや、もう配下の大名か。
…。
従属しただけで臣従はまだしてません。
なんて頑固な…。
蝮め…。

ここまで中国の方は快調に来ている。
四国は…、まだあつまっておりません。
蝦夷の方からもくるので仕方ないには仕方ないが…。
■■■方針■■■
従属大名を臣従させる。
昌幸軍団の到着を待つ。
(まだ尾張くらいにいる。)
大内を瓦解させる。
力押し?

●●●1564年5月●●●
三好家が臣従し、石高も1500万石を突破。
中国の方は順調に進んでいる。(但馬、因幡辺りが遅れてはいるが)
東日本の諸大名が力を合わせると強いんですなぁ。
一方、昌幸軍団はというと…。
…。
ようやく摂津に着いたばかりだ。
遅いんですなぁ。
早く四国へ行ってくれないかなぁ。

財政的には全く問題なく、破綻はありえない状態だ。
鉄砲…は真田家では購入する必要はないだろう。
臣従大名にやらせておけば…。
■■■方針■■■
昌幸軍団の到着を待つ。
斉藤を臣従させる。
大内を潰す。("ぷちっ"って感じ)
力押し?

●●●1564年6月●●●
とうとう、斉藤が臣従した!。
うおぉ!何故か感動!
うぅ…。目から汗が…。
石高三位の斉藤が加わった…。
ジーンと来るものがあるな。
…。
ささやかな出来事が一つ。
大内が臣従志願してきた。(石高4位)
時間と金を節約するために、許可した。
斉藤・大内の加入により、一気に300万石近く上がった。
中国の4分の3は平定した。
四国は…。
…。
■■■方針■■■
島津は内部崩壊させられそうだ。
臣従大名多いし。

喝ッ!

●●●1564年9月●●●
拙者の予想通り、中国は臣従、臣従、臣従で平定できたでござる。(誰だ。)
約20の大名が真田に主家鞍替…
島津って、何て悲しい大名なんだろう。
中国地方・長門、九州に続々と兵を導入。
"日本にこんなに兵がいたのか?"と自分でも疑問に思うくらいに大量の兵が九州に集まりつつある。
…。
しばらくは外交中心かな?。
もはや、武の時代は終わった…?
■■■方針■■■
四国・九州を効率よく奪い取る策を練る。
…。
…。("ぷちっ"って感じ)
ぶりぢすとん
●●●1564年11月●●●
北九州は大体臣従させた。
正直、拍子抜けだ。

真田家と島津家の間に戦国最後の戦いが開かれた。
この戦いですべてが終わる。
勝敗は既に決まっている。
何故島津は戦うのか…?。
真田側の僕にはわからない。
ただ、これだけは言える。
「喝ッ!」。(気にしないでください)


薩州の戦い
何故、この戦いに薩州という言葉が付けられたか。
それは誰にも分からない。
真田軍140万、島津軍16万。
…圧倒的多数で可決されました。(スルー!)
戦力差がありすぎた。
とにかく!
…。
開戦です。
■■■方針■■■
力押し。
四国は昌幸軍団に任せる。
●●●1565年5月●●●
真田軍の前に島津兵が倒れていく…。
一大名として精強を誇る薩摩兵も日本の兵には勝てなかった。
鉄砲で為す術もなく倒れていく…。
無惨だ…。
…。
四国も残すところ伊予だけとなり、九州もどんどん攻略して行っている。
時間の問題だ。
■■■方針■■■
戦いを早く終わらせ、天下泰平の世にする。

●●●1565年8月●●●
薩州の戦いも終わりが近い。
四国は…九城。
九州は…薩摩と大隅。
いよいよ敵の本拠に攻め入ることとなった。
華々しく、最後の戦を楽しもうではないか。
…。
■■■方針■■■
昌幸軍団の兵を少しこちらへ加勢させる。
一気に戦いを終わらせる。。

薩州の戦いも真田家の勝利で幕を閉じた。
真田幸隆は見事に信濃の一城主から天下人へと成り上がったのである。
その陰には色々と邪道が…いや、それも戦国の世の…何たらです。
真田家2349万石。1566年3月天下統一。
200年あまり前の事であった。

▲▲▲感想▲▲▲
数々の苦難、そして人道を外れる様な行為。
それらを何度となくやって来たわけですが、それも幸隆の性格そのものを表してるとさえ思えます。
信濃の戦い、織田との戦い、大内との戦い、そして薩州の戦い…。
思えば、人を沢山殺めてしまった。
だが…。
殺らなければ殺られていた…。
それも事実だ。
言い訳に聞こえるかもしれないが、それも事実なんだ。
実際、言い訳なのだが…。
兎にも角も、真田の天下だ。
これほど嬉しいことはない。
真田幸村が出現する前に統一してしまったのは少し残念だが…。
犠牲を少なくするためだ、仕方ない。
僕は満足だ。
史歴には残ってないが、真田が天下を取れて。
また、この戦国史というゲームを作って頂いたasaka氏に感謝♪(前にも聞き覚えのある台詞…)

追伸:僕は昔から真田家というものに興味があり、調べたりもしていました。
そんな中で何度、「真田家が天下を取ってたらなぁ」と思った事だろう。
時は過ぎ――
小六の時だった…。戦国史というゲームをふと見つけ、ダウンロードしやってみた。
奥羽戦国史では南部家や伊達家、大宝寺などでクリアできたものの、現実と同様にゲームも甘くなかったのか、四国史全国版の真田家ではクリアできない日々が続いた。
時は過ぎ――
中三の時だった…。再び戦国史にはまり、雑賀衆・根来衆などの中小大名を次々とクリアし、ついに真田に挑んだ。
これが今回の物語(?)である。
脈絡のない文章である。

画像は上が統一時のもの。下が武将を無理矢理肥後に集めて集合写真!っというものです。


2006年3月14日 著者 退助